ブログ

“令和”が生まれた場所に行ってみませんか?

初春の令月にして気淑く風和ぐ”令和”

本日より、徳仁天皇陛下の御代”令和”が始まりました。

元号”令和”の由来が万葉集にあることはニュースなどでも度々取り上げられていますのでご存知かと思います。 その令和の由来となった万葉集の”梅花の歌”が詠まれたとされる場所が福岡県太宰府市にあり連日多くのお客様が訪れてあるそうです。

そんな令和と万葉集と大伴旅人、そして歌が詠まれた地、大宰府について簡単ですが書いてみたいと思います。

 

| 大伴旅人と万葉集”梅花の歌”

梅花の歌の正式な題は「大宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌三十二首」というものです。

西暦728年に、大宰府の長官である大宰帥(だざいのそち)として赴任してきた、当時60歳を超えていた大伴旅人が、天平2年(西暦730年)の正月十三日に31人の客人を招いて歌宴を催したときの様子を書いているのが、令和の由来となった梅花の歌の序文です。

大伴旅人は梅花の歌が詠まれた年、西暦730年11月には大納言に任ぜられて京に戻っていますので、もしも、この年に宴を催すことがなければ、令和という元号もこの世に存在しえなかった可能性があると想像すると、人が紡ぐ歴史の不可思議さや面白さを感じます。(大伴旅人も、この時の宴がまさか後世の元号に影響を与えるとは思ってもみなかったでしょうし。)

この梅花の歌の序文については、すでに多くの解説がなされているので省略しますが、令和の由来となった「初春の令月にして、気淑く風和ぐ」だけでなく、序文中にある”曙の峰に雲移り(夜明けの山の峰には雲が移ろいゆく)”という言葉は、大宰府から見た東の方角にある英彦山山系の山々に夜明けの雲がかかって、うつろいでいく姿なのだろうかと想像できます。

また”庭には舞ふ新蝶あり(庭では生まれたばかりの蝶が舞っている)”の蝶は、福岡で見ることができるアゲハチョウかな、それとも当時は昆虫学など存在していなかったから、越冬したムラサキシジミが梅の咲く陽気に誘われて出てきた様子かなと深読みしながら序文全体を読んで、当時の人たちが持つ風情を楽しむ感覚を想像してみるのも、漢籍ではなく万葉集という書物からうまれた元号ならではの楽しみ方の様な気もします。

万葉集の梅花の歌序文、庭には舞ふ新蝶あり

 

| 大伴旅人邸跡の坂本八幡宮

大伴旅人の邸宅があった跡に、いまは坂本八幡宮(福岡県太宰府市坂本3丁目14)があります。

大伴旅人が京に戻った後は、西暦774年大野城に持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)を奉納する寺が建立され四王寺と称されました。いまの大城山を中心とした四王寺山は、この四王寺が由来になっています。 その後、西暦811年に嵯峨天皇の勅宣にて四王寺の座主坊となる寺院として善正寺が、大伴旅人の邸宅跡に成立しました。

善正寺は天台宗の寺院であり、当時、九州の天台宗では八幡宮を祀っていました。その後、数百年間は記録にも残っておらず歴史のなかに埋もれそうにもなりますが、戦国時代にいまの地域(坂本)の原型となる村落ができ、その鎮守として坂本八幡宮が祀られることとなり、現在まで地域の方の産土神として崇拝されてきました。

坂本八幡宮は応神天皇を御祭神とする神社です。 応神天皇は第15代の天皇で、筑紫の宇瀰(現 福岡県粕屋郡宇美町)で産まれたとされています。

機会があればぜひ訪ねて、早い時間に訪れたのなら山を眺めながら”曙の峰に雲移り”を、蝶が舞っているならば”庭には舞ふ新蝶あり”を、そして大伴旅人たちと同じ様に”天を蓋にし地を坐にし(天を屋根とし地面を床にして)”過ごしてみるのも、1300年の時が繋ぐ日本ならではの風情ではないでしょうか。(あくまでも、他の参拝客のご迷惑にならないようにはご注意ください。)

 

| さいごに

令和が生まれた場所として多くのメディアで紹介されたこともあり、連日多くの参拝客で賑わっているようですが、本来は地元の方達の産土神として祀られてきた小さな神社ですので、観光用に道路が整備されている訳でもなく、大きな駐車場が完備されている訳でもありません。

車でお出かけになる皆様は、多くの歩行者の方達にも注意をして事故がない様にお参りされてください。

関連記事

ブログをメールで購読

メールアドレスを記入して購読すれば、更新をメールで受信できます。

ページ上部へ戻る